岡山県 豪渓・備中松山城・頼久寺・真備公園 <3/6>
 備中松山城

 高梁市は城下町の趣きを今に残す。町の北に標高480mを最高に大松山、天神山、小松山、前山の400m級の山容がそびえるが、松山城は臥牛山といわれる小松山の山上にある。天守閣や二重櫓、一部の土塀が現存していて、これらは国の重要文化財に指定され、日本で現存天守を持つ最も高い山城として有名である。現在の天守は、江戸時代の水谷氏によるものである。

 また、高梁市は城郭などの復元のため、平成7年から大規模な工事を行い、本丸の東門や南門、二つの平櫓などを昔通りに再建し、城の威容は一段と増した。

 承久三年(1221)、鎌倉幕府三代目将軍・源実朝が世を去ったのをきっかけに、後鳥羽上皇は倒幕の兵を挙げたが失敗し隠岐に流されました。(承久の変)鎌倉幕府二代執権・北条義時は、この乱で功績のあった三浦一族の秋庭重信に備中有漢郷の地頭職を任じ、重信が臥牛山の大松山に砦を築いたのが始まりです。

 元弘元年(1321)、後醍醐天皇の倒幕計画が失敗し隠岐に流された年、秋庭氏に代わって備後・三好一族の高橋宗康が入り、城塞を小松山にまで拡張しましが、北条氏が滅亡すると高橋氏も倉敷の流山城に移りました。

 天平十年(1355)、細川頼元がこの地を治めた時に、松山城には、室町幕府成立に足利尊氏を助けた高師直の三代後・師秀が城主になりました。しかし重臣・秋庭信盛(重信の孫)は高師秀と対立して、山名時氏(宗全の三代前)のもとに走りました。

 山名時氏は絶好の機会とみて、鳥取から兵を進め、高氏を御津郡・徳倉城に追いやり秋庭信盛が城主に返り咲いたのですが、毛利氏に攻められて、ここに秋庭氏の名は消えたのです。
 その後、上野信孝が守護代として入っていたのですが、源平時代の一の谷合戦で平重衡(清盛の子)を討った荘氏が、その功績で幸山城に入り、のち猿掛城主・荘為資が、天文二年(1533)尼子氏と組んで松山城を攻め落とすのです。

 永禄九年(1566)、尼子氏は本拠であった出雲の富田城を毛利氏によって落とされ、二年後に尼子氏の再興をかけた尼子勝久と部将・山中鹿介幸盛は備中への侵攻をはじめました。

 その頃、毛利氏と手を結んでいた鶴首城主・三村家親は、備中制圧と備前・美作への侵略を企て、まずはその鉾先を松山城に向けました。元亀元年(1570)、三村家親は尼子勝久の備中侵攻で荘高資が参戦している隙を狙って、手薄になった松山城を奪ってしまったのです。

 家親はその勢いで美作の高田城を攻める途中、当時は備前沼城主・宇喜多直家が差し向けた刺客によって鉄砲で暗殺され、家親の子・元親はその弔い合戦と称して、明禅寺城で宇喜多勢を攻めたのですが逆に敗退し、松山城は再び庄高資の手に戻ったのです。

 この庄高資は宇喜多直家と結んでいたのですが、元亀二年(1571)には毛利清元の大軍が攻め寄せ、庄氏は討ち滅ばされ、またもや松山城には三村元親が入ることができました。
 元亀三年(1572)、将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると、中に立たされた三村元親は織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻したのです。

 そして天正二年(1574)、毛利・宇喜多連合軍と三村勢との間で激戦が起こるのです。(備中兵乱)
 毛利軍の小早川隆景の二万の兵は、三村政親の国吉城をはじめ、片っ端から三村氏の城を落とし東へと侵攻しました。
 ついに三村元親は最後の城・松山城が落ちていく姿を背に、近くの松連寺で自害するのです。

  

↑↓ 備中松山城郭の景観です(^.-)☆ 紅葉狩りを兼ねて、結構、大勢の観光客が訪れておられました(^_^)v 中には外人さんも

  

   

  

  

 

  

  

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