広島県世羅郡甲山町 今高野山・龍華寺 <1/5> |
2004/11/13(土)
先日の中国新聞に、こんな記事の掲載がありました。
里山、秋色に 広島県世羅の今高野山
--- 2004/11/12 中国新聞 ---
紅葉前線が広島県東部を南下している。各地の名所では、モミジの六、七分が赤や黄色に染まってきた。見ごろは例年より一週間ほど遅く、今週末から今月下旬になりそうだ。
世羅町甲山の県史跡「今高野山」境内の木々も鮮やかに色づいた。朱色の太鼓橋が架かる神之池から、町の中心部を一望できる展望台にかけ、イロハモミジやヤマモミジがあでやかさを競う。雨上がりの地面には落葉のじゅうたんも彩りを添え、しきりにシャッターを切る写真愛好家の姿も目立った。
紅葉シーズンの到来に、府中市三郎丸町の三郎の滝は、滝と紅葉のコントラストを描く絵画教室を十三日まで開催。三原市高坂町の仏通寺は二十三日までの土日祝日の午前九時〜午後五時、寺周辺の市道で一方通行の交通規制を実施する。
【写真説明】鮮やかに色づいた今高野山一帯のモミジ(撮影・天畠智則)
で、今日・土曜日は、この記事を参考に早速、嫁さんと“県史跡「今高野山」”の散策となりました。
今高野山(いまごうやさん)
県史跡:昭和27年2月22日指定
甲山町を中心とする世羅郡の東半一帯は、鎌倉時代以来高野山領大田荘であった。
今高野山龍華寺は、大田庄経営の中心寺院として建立され、観音堂、御影堂等が設けられ、高野・丹生明神も勧請され、十二院が一山をなしていた。
現在は、福智院、安楽院と龍華寺の一部が残り、本尊十一面観音二躯(国重文)を始め創建以来の遺品が少なくない。
備後大田荘(おおたのしょう)は、平安時代に在地の豪族・橘氏によって開発された荘園と推定されています。
その後、平清盛の子である平重衝の領地となり、重衝はさらに大田荘を拡大発展させようとして、永万2年(1166年)には当時絶大な権力の後白河院に寄進しました。
寿永4年(1185年)には平氏が滅亡し、院はその永代供養料として文治2年(1186年)大田荘を紀州高野山根本大塔へ寄進しました。こうして以後270年間にわたり、大田荘は高野山領として営まれることになるのです。《今高野山》
真言宗醍醐派、愛染院龍華寺。開山。弘仁13年(822)弘法大師の開創と伝わる真言密教の霊場。
平清盛の子である平重衝の領地となり、重衝は永万2年(1166)後白河院に領地を寄進した。寿永4年(1185)平氏が滅亡し、院はその永代供養料として文治2年(1186)この地を紀州高野山根本大塔へ寄進して、「今高野山」が建立された。
今高野山龍華寺は、今高野山の総本山として、また大田庄経営の中心寺院として建立され、観音堂、御影堂が設けられ、高野・丹生明神も勧請され、十二院が一山をなしていた。
現在は、福智院、安楽院と龍華寺の一部が残る。本尊十一面観音立像(重文)2躯は平安期の作と伝る。
★ 所在地:広島県世羅郡甲山町甲山158
★ 交 通:尾道駅からバス、甲山営業所下車
★ 連絡先:0847−22−0840
(左)真言宗・今高野山の山門です(^.-)☆ (右)駐車場に設置してあります周辺の観光案内表示板
(左)“安楽院山門”前の景観です (右)安楽院山門です
安楽院山門(県重文)
昭和30年1月31日指定
十二院の一つ安楽院の表門で、桃山時代から江戸初期ごろの建築である。本堂は昭和40年大師堂脇へ移された。安楽院は県の重要文化財に指定されており、山門は本堂の付として県重文に指定されている。…との“史跡今高野山保存会”の案内板がありました(^.-)☆
(左)中国新聞には、この辺りで撮られました写真の掲載がありました(^.-)☆
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