今日は年金2級の検定試験でした(^.-)☆ <2/2>
 2005年01月23日

 ■年金検定試験の帰路は、水野勝成公の墓前に参拝でした(^.-)☆ 
 
 年金2級の検定試験は、予定通りP.M.0:30に終了。
 試験結果の良否は別として、とりあえず終わりまして一安心。後は3/11の合否の通知を待つのみです。まぁ出来は宜しくはないのですけどネ…
 
 そんな事はさておきまして、試験を終えての帰路にはスグ近くに存在します賢忠寺の福山藩初代藩主・水野勝成公の墓前に参拝でした。
 試験後でなく、試験前に立ち寄っておきましたら、もっと結果は良い方向にと向かっていたのかも分かりませんネ(^.-)☆
 
 《水野 勝成》
 
 --- 永禄7年(1564)〜慶安4年(1651) 官位(大坂の陣時点) 日向守 ---
 
 人呼んで「鬼日向」。「家康二十八将」の一人。水野忠重の長男。父の妹が徳川家康の母なので、家康とは従兄弟にあたる。天正7年(1579)に初陣するが、同12年(1584)の小牧長久手の戦いで軍令違反を犯して一騎駆け。一番首を挙げるが、父・忠重から出陣停止処分を受けてしまう。
 
 怒った勝成は父の家臣を斬って出奔。以後は諸国を放浪。豊臣秀吉・佐々成政・小西行長・黒田長政・三村親成に仕えるが、父からの妨害や短気で粗暴な性格から刃傷事件などの問題を起こすなど、いずれも長く勤まらなかった。ただ、その間に武勇を示している。
 
 慶長3年(1598)、家康の仲介で父と和解して徳川家に帰参。同5年(1600)の関ヶ原の戦いの直前に父が西軍に謀殺されると家督を相続して、三河刈屋3万石の大名となった。
 もちろん東軍に属して戦い、所領安堵。大坂の陣では徳川軍として参戦。夏の陣では大和口の先鋒大将を務めて、道明寺の戦い(前半戦・後半戦)・誉田の戦い・天王寺・岡山の戦いに活躍。52歳の年齢ながら自ら敵兵を討ち取ったという。戦後、大和郡山6万石へ転封された。
 
 元和5年(1619)、備後神辺10万石へ転封。「一国一城令」も適用されず幕府の許可と援助を得て、定興寺山に新たに城を築いて居城として地名を福山と改姓。
 城下町の発展と新田開発に努め、現在にまで続く福山の礎を築く。
 また、島原の乱には74歳の老齢ながら将軍・家光の要請で参陣。嫡男・勝俊に家督を譲って隠居した後も、彼を補佐するなど生涯現役であった。
 また、家臣にも温かく接し、慕われていたという。
 
 …と、こんな勝成公で仲々の豪傑だったようですネ(^.-)☆
 
 挿入しています画像は、(上左)福山城初代藩主・水野日向守勝成公の墓 (上中)福山城四代・水野美作守勝種の墓 (上右)水野勝成公の父・水野和泉守忠重の墓 (下)JR福山駅北口に存在します福山城 です。
 
 こぅして見ますと、福山城も仲々の名城ですネ(^-^)//"

   

(左)(右)福山城四代・水野美作守勝種の墓

   

(左)(右)水野勝成公の父・水野和泉守忠重の墓

   

   

   

↑↓ JR福山駅北口に存在します福山城です(^.-)☆

 

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